夢すがら
壁はもちろん床まで薄い寮は、ベットに寝転んでいてもなお、階下の声を通す。
明瞭に聞き取れるわけではないが、内容の予想がつくだけに壁ドンならぬ床ドンをするわけにもいかない。
文句を言うどころか、覗き見ることすら許されず、迂闊に部屋から出ることすら叶わない。
「…手段と目的が入れ替わってるっつの」
口では不平を述べながらも気分は悪くないので口の端がぴくぴくするのを抑えられない。
「わー、シトっ!」
はっきりと聞こえたコヨミの声の後に、ドンガラガッシャンと物音がする。
「ふはっ、何してんだよ…」
高い音はしなかったので、恐らく何かが倒れるなりひっくり返るなりしたと予想する。
皿とか寮の備品を破壊されると、金はあるはずなのに理事長が鼈甲経由で給料から天引きしてくるからたまったもんじゃない。
いくら一蓮托生だからと言って、金まで負担する気はない。
ちなみに数ヶ月前に思徒の短気が原因で発生した、殴り合いの末に俺が投げつけた花瓶の弁償額の半分は出させた、当然だろ。
飯の匂いがして、下からガタガタと大きな物を動かす音が消えて、誰かが廊下を歩いてこちらに向かってくる。
「入っても良い?」
開いたドアをコンコンと叩いてから言う台詞ではない。
「お前も来てたのか」
「芝くんは居ちゃダメだった?」
悲しいなー、寂しいなー、と言うくせに目が笑ってる。
歩く度に食欲をそそる油の匂いが強くなる。
「晩めし、揚げ物?」
「唐揚げ、好きだろ? 馬鹿みたいに揚げたからじゃんじゃん食べてね」
「唐揚げオンリーなのか?」
「キャベツも千切りにしといたよ」
「好きだけどな…」
好きだけどよ、誕生日に唐揚げバイキングになるとはさすがに予想してなかった。
そんな俺の気持ちが顔に出ていたのか、芝が少し悲しそうに、ベッドの空いているところに腰をおろした。
「俺が全部作ったのになぁ」
「嬉しいけどさ、嬉しいけどなんか違うって言うか」
厚意を無下にするわけにもいかずフォローしようと試みるが、胃袋は耐えられるだろうか。
困ったように寝転んだ俺を見下ろす芝が、語弊だけどね、とさっきまでの表情はどうしたと聞きたくなる笑顔を浮かべる。
「俺が作ったのは唐揚げが全部」
「千切りキャベツはお前じゃないってことか?」
「あー、そうじゃなくてね。キャベツは唐揚げと言うメニューに含まれてるって言えば良いのかな?」
やはり唐揚げ食べ放題からは抜け出せないらしい。
いつかどこかでおっさんからもらった胃薬の場所を思い出そうとする。
「俺は唐揚げ担当。みちるちゃんも他の人も違う品作ってるから安心してよ」
「他のメニューは?」
「行ってからのお楽しみ」
さあ、と手が伸ばされたので左手で掴むと急に懐かしさと寂しさが喉の奥から這い上がってきた。
知っている。
俺はこの手の感覚を。
節くれだっているのに指の長さでスマートに見える、持ち主にそっくりの手。
「芝…」
お前は俺の知らないところで一度目の生を自分の意思で投げ捨てて、二度目の生を死神に回収された。
俺の前に姿を表したかと思えば、最後は概念ごと消えていった。
温度の感じられない体が現実逃避を許さない。
「お前、もう死んだのにな」
死んだからこそ、夢で見ているんだろう。
融通の聞かない俺の脳は、芝の存在すらも保ちきれない。
どんどん透明になり、最後は小さな光の集合体となり、霧散した。
喪失感と確かに残っている手の感覚。
「気付かなけりゃ良かったのに」
夢だと思わなければ、今もあいつはここにいたのだろうか。
「くそだな、神様ってやつは」
見慣れた部屋がなんだか広くなったような気がする。
人恋しくて向かった食堂は誕生日会場になっていた。
机には普段より多くの皿が並んでいるのに、それでも何かが足りない。
「記憶がプレゼントとか新しいな、みちる」
思い出したぜ、足りないもの。
あとはもう、待つだけの俺じゃない。
この手で掴んでやる。
今度は温かい手を。
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