=蒸気=


 食べることに疎かった自分が嘘のようだ。
 少し暑くなってきた天候の中、鍋のふたが蒸気で踊っている。
 換気扇を回してもこもる熱気はキッチンを離れようとしない。
 汗ばんではりつく首元の髪を、芝は手首にはめていたゴムで束ねた。
「あっちー…」

 あ、コンロに油汚れ。
 灰汁を掬ったおたまの横からくすみを見つける。
 火をつけている今、掃除をする術はない。
 掃除だってよくする方じゃなかった。
 どちらかといえば知佳の方が綺麗好きだったかもしれない。
 衛生だとか除菌だとかどうでもよかった。
 そんなもの自分の汚さと同じだと、考えることを放棄していた。
 ところが今は体に害なしそうなことに特に敏感になっている。

 知佳がいるから。
 知佳と暮らし過ごし、生きているから。
 名義は黒羽寮に厄介になっている身、ながら。

「芝くんったらまた手の込んだものを」
 ひょいと鍋をのぞきこんだみちるちゃんは作った笑顔で褒めたたえる。
 そして語尾に続くちゃんと食べなきゃだめですよとの優しいお叱り。
「作ったらお腹いっぱいになっちゃうんだ」
「それは気のせいです」
 私より絶対細いじゃないですかとゴムの後の付いた手首の横にみちるちゃんの手が並ぶ。
「男は骨ばってるんだよ」
「それにしても芝くんは食べなさすぎです」
 ほらみてくださいと手首に指を巻きつけられた。
「親指と人差し指で軽く一周してしまうじゃないですか」
 私はぎりぎりでしかつかないんですと手首を見せつけられる。
「性別の問題じゃないかな」
「食生活の問題です」
「ちゃんと食べてるよ」
「つまみ食いだけじゃ食べてるにカウントされないんですよ」
 溜め息をついて今日の予定を告げられた。
 高校に行った後、直接Zローンに寄るらしい。

「学校、楽しい?」
 え、とみちるちゃんは言葉に詰まった後すぐに笑顔で楽しいですよと言った。
 これが俺とみちるちゃんを明確に線引きするラインだ。
「いってらっしゃい」
 死んだことになっている身で学校に行く訳もなく今日もことこと煮込み料理。

「芝ー、朝飯」
 物音を立てながら知佳が部屋から降りてきた。
「半熟?固焼き?」
「レア」
「米じゃないんだから」
「…肉じゃねぇの」
「肉の焼き加減はもともとコメの炊き具合え使われてた言葉が引用されたものだよ」
 さっすが天才と肩を叩いてくる。
 肩から覗き込んでくる知佳の目の前に半熟の卵焼きを差し出す。
「さんきゅ」
「いえいえ」
 夫婦のような会話をする。

 いただきますとフォークを掲げた知佳の腕を掴む。
「おはようのキスがまだ」
「んなのねーよ」
「じゃぁ朝飯作ってくれてありがとうのちゅー」
「お前はネズミか」
 右手からフォークを左に移して目玉を突いた。
 もちろん卵の方の。

「鍋でコトコト言ってる奴、朝飯じゃねぇの?」
 お行儀悪くフォークで鍋をさす。
「今日の晩御飯にと思ってね、煮てるんだ」
「何を」
「ビーフシチュー」
 手間かかりすぎだろと呟く。
「ほら、俺ヒマだからさ、学校とか無いし」
「だからって始終家事することもないだろ」
 第一お前そんなに食わないし。
 俺の腰を掴んでほっせーなぁと知佳は言った。
「急に腰掴むとか」
「だってほっせーんだもん」
 だもんじゃない。

「知佳は今から学校なのに…気分出ちゃうなぁ」
「俺は普通に登校すっから」
 いつのまにか皿の上がパンくずだらけになっていた。
 ごちそーさん、と知佳は席を立った。

 今日も君の帰りを待つ。
 死んだ扱いになっている身だからなかなか外に出ることもできない。
 掃除に洗濯、炊事と仕事を作っては暇つぶしにしていく日々。
 ルーチンワーク。
 退屈が嫌いだったはずなのになぜか嫌いになれないまま今日に至る。
 その先に退屈じゃないものが待っていると知っているから。
 知佳が帰ってくるのを待つ。
 今日もコトコト貴方を待つの。


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