=アンハッピー・アンバースデー=


 この音声は貴方を安らかな気持ちにいざなうためのものです。

 頭の中にある台本はこの台詞から始まる。
 規則的な寝息を立てる知佳の枕元に頬杖をつき、変則的な文字の羅列を口ずさむ。
 単語を追うごとに新たな言葉が浮かびあがり、既に用を終えたそれはいつの間にかぼやけて消える。
 キーワードが紅く染まり、イントネーションは蒼く波打つ。
 学生だったころから自分の書くノートには黒と赤と青ばかりだなと芝はふと思い出した。
 つらつらと追懐の情に耽りながらもすらすらと淀みなく口は動く。

「緑は?」
 隣の席から伸ばされた掌に、ペンケースから緑色と分類されるペンを3種類渡す。
 サンキュと授業中にもかかわらずひそめる気配のない声音に呟くようにどういたしましてと返した。
 そんな些細な会話の為に使われることのないペン達は存在しているのだ。
 自分では持たない割に知佳はカラーペンが好きなようだ。
 女子のようにとは言わないまでも、板書を写す気がある時のそれは目に鮮やか仕上がりだった。
 本人曰く色とりどりにすると塗り絵の様で面白いのだそうだ。
 俺はシャーペンと赤と黒と青のボールペンがあれば事足りたのでよくわからなかった。
 理解できない知佳で良かった。

 よくよく考えるとその頃から持つペンでベッドのパイプを叩く。
 等間隔で鳴らし続ける。
 心音が勝手にそのリズムを刻み始めたころ、そっと知佳の胸元に耳を寄せた。
 同じ速さの鼓動が聞こえる、
 はずだった。
 少しのひずみに顔が歪んだ。

 自分の思い通りにならない知佳を愛していた。
 愛おしくて愛でたくて仕方が無かった。
 その感情は過去形なのかと聞かれれば現在進行形で現在完了なのだと答えよう。
 完了してしまっているし今もなお続いている。
 知佳に天才と呼ばれる自分にも現在進行形と現在完了の違いが理解できない。
 ずっとわからない。 

 しばらくして心拍が音に同調していることに気付いた。
 動揺していたのか自分の方が早鐘を打っている。
 マインドの方のコントロールは慣れたものでかつがつ正した。
 得てしてマインドコントロールというものの意味を問われると直訳より自分の操作となる気がする。
 ところが実際は他人の心を操ることもそれに含まれるのだ。
 はて、英訳の問題だろうかと調べてみれば和製英語なのだから笑ってしまう。
 勘違いをさせて高みの見物でも決め込もうとしているのではと勘繰ってしまう。
 そんなことをして誰が得をするでもなしに思ってしまうのだ。
 なんて捻くれた人間なのだろう。
 いつもの自己評価に着地したところで口を開いた。

 音声催眠というものがある。
 あれは確かクラシックの音域を弄っていたあたりに出会ったものだった。
 言うなれば自己暗示に程近いそれをふと思い出したのだ。
 大型連休の最後の日のことだった。
 過去数年、毎年ゴールデンウィークには知佳とどこかに出かけていた。
 去年の今頃はアクション物の映画を見て目を輝かせる姿を見ていたものだ。
 作品の内容も忘れたわけではないがなにせ知佳の姿の方が印象的だった。
 昼食を摂った時の一口ひとくちまで思い出せる。

 それはもう鮮明に思い出してしまったのだ。

 すると望んで選んだ自分の立ち位置が急に面白いものではなくなってしまった。
 知佳に許されない存在で知佳と相いれない存在で知佳と敵対するこの、存在。
 知佳に笑って貰えなくて知佳と居ることもできなくて知佳と話せない、そんな立ち位置。 
 馬鹿じゃないか馬鹿だろう馬鹿に違いないどうしようもない馬鹿だ。
 彼岸人には必要のない睡眠がとれなくて眠れず自分を卑下し続け、辿り着いた音声催眠の記憶。
 頭の中に青いペンで書かれたそれは馬鹿な事を始めたあたりに見たものだった。

「好きだよ知佳」
 それは睡眠学習に似ていた。
 首筋に指を這わせ脈を測る。
「愛、してるんだきっと」
 意識とは別に感じるのだ。
 だから鼓動は規則正しい。
「せめて今日だけ」
 覚えがなくても憶えている。
 この指で締め付ければ苦しいとどこかで思うよね。
「虚しいとは解っているんだ」
 それでも。
「空しいんだ」
 知佳に祝ってもらえない誕生日なんて。

「あの場所で、待ってる」
 ゾンビのくせに呼吸をしているものの首からゆっくり手を離した。
 死神みたいなもののくせに動き続けている心臓のあたりが少し痛かった。
「誕生日おめでとう、俺」
 明ける空の赤と青と黒のグラデーションを眺めながら考える。
 アンハッピーバースデーを祝うことと自分で誕生日を祝うことの何が違うのだろう。
 どちらもステキにいかれてて痛々しい。

 そんないつも通りの憂鬱な空気の中、高く上った陽を眺めていた。
 もちろん直視しているわけではない。
 いつだってそうだ。
 輝いているから見てみたいのに思うとおりにならない。
「芝」
 声がしても振り向けない。

"Happy Birthday"

 蝋で出来ているわけでもないのに脚が、視界がぐらりと歪み、ありがとうとも言えないのだ。
「考えすぎで回りくどいんだよいっつも」
 本当にその通りだ。
「頼まれて祝ってんじゃねぇからな」
 わかってるよ。
「誕生日おめでとう、芝」
 
 良い加減、目を開けろとまぶたの向こうで知佳が笑った。


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