=水の音=


 伝えたかった、だけ…なんだ。
 雨音に遮られながらぽつりと奴はそう言って、人の話も聞かずに背を向けた。
 返事は聞きたくないってか。
 捕まえようと伸ばした指は1つの答えにぶちあたって重力に従った。
 喪服のように沈んだ黒い傘が校門をくぐって、消えた。
 無意味に濡れた腕が、水分が体温を奪って、寒い。

 

 やることがないと余計ことを思い出す。
 静かだとなおさらだ。
 桃佳は今日も学校だし、親父は仕事に行った。
 中学を卒業して宙ぶらりんの俺は1人きりで窓の外を見ている。
 眼には立ち話をしているおばちゃんや走ってる幼稚園児が映っている。
 けれど酷く無責任に言葉を吐き出した親友だけが瞼にこびりついて離れないのだ。
 眼を出来るだけ開けていればこんな思いはしなくて済むのだろうかと努力するも目は乾く。

 バカみたいだ。
 いや、バカそのものだ。
 まあ頭がいいかと聞かれれば真っ先に奴が浮かんできて俺なんか全然だと思うけどそれは別の話。
 芝の言葉に翻弄されてうじうじと思い悩んでいるだなんてさ、ほんと。
「俺らしくないんだよ」
 らしさなんてよく分からないけど口に出してみたらそうだと思えてくるから不思議だ。
 急に活力がわいてきて、カレンダーの日付もばっちり見えて、思考回路はすこぶる快調。
 こうだと思うものがあるから家を飛び出した。
 
 

「祝え」

 何を言われるよりも先に言ってやった。
 ざまーみろ。
 どうせ親は仕事だろうと勝手知ったる人の家に乗り込む。
 なんでだとかウソだなんて呟くのは本人を前にすることじゃない。
 ソファに腰掛けてもう1度、祝え、と俺は芝に言う。

「おめでとう」
 親友の誕生日にそんなしけたツラ見せるのはどうかと思う。
 そのうえドアに貼り付いて一向に距離を保つとは。
 人を危険動物みたいに扱う芝に腹が立つ。
「ちゃんと祝えよ」
「お誕生日おめでとう」
「そうじゃねえよ。
 お前はダチにそんな距離で話しかけんのかよ」
「だって―」
「だっても糞もあるかバカ」
 弾みをつけて立ち上がり喧嘩を吹っかけるように近づいた。
 とっさに後ずさろうとした芝を見て腕が伸びた。

「苦しい」
 だろうな。
 でも、そんなでもないだろうさ。
 胸倉をつかみあげるだなんてベタなヤンキーみたいなことしたの久し振りだもんよ。
 確かこいつに初めて会った頃も同じことをした覚えがある。
 あの時は俺のほうが背が高かったなだなんてしみじみと思いかけて現状を振り返る。
「なあ俺はさ、猛獣かなんかに見んのかよ」

「ケ…モ、ノっ」
 
 あの日のような傘をたたく雨粒も、もちろん大雨洪水警報が出ている訳でもないのに発
せられた言葉は理解するにはあまりにあまりな言葉だった。
 一瞬、日本語じゃないのかとさえ思ったほどだ。
 頬を赤く染めて恥じらうようにこちらを見たかと思えばどこからか血が噴出していると
しか思えない速度で土気色に近づいていく眼前の芝の顔。 
 言ってる本人さえも理解の範疇ではないのだと悟り、安堵する。
「俺が何だって?」
 運動をしたわけでもないのにとぎれとぎれの息で芝が言う。
「知佳じゃなくて俺が―」
「お前が?」

 けだもの、なんだ。

 胸倉を掴んでいた腕を優しく掌で包まれる。
 男はみんな狼だってむかし誰かが言っていた。
 獲物に襲い掛かる獣は、みんな長い睫毛を伏せて震える唇を近づけてくるものなのか。 
「させねえ」
 思ったより弾力のあるそれに己の手を当てる。
 驚いてぱちりと開けられた目はすぐさま後ろめたいことがあるかのように掌を見つめた。
「ごめん」
「…ほんとに、な」

 あー、痛え。
 かちりといっそ清々しくぶつかった歯を押さえる。
 それ以上に眼前で固まってしまっている芝に痛みも吹き飛んじまうわけだけど。
 こいつのことだから何かおかしな方向に考えてるんだろうな、とか。
 きっと理解出来ちゃいないんだろうな、だなんて。
 決定的な言葉にするまで信じない無神論者になんと言えば通じるのだろうか。
 恋愛感情の好きじゃ、ない。
 けど嫌でもない。
 だってこれが思うことの全部。   

 どちらにせよ、あの日ほど悲しい別れをする日は来ないだろう。
 言葉を探す代わりにもう1度、あと少しと俺達はキスを重ねた。
 ちゅ、という音もしない抱擁にも似たそれを、何度も。


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