=ネコにスズ=


 連れ込まれたトイレの個室は男二人が入るにはあまりにも狭い。
 便座に体重をかけるように押し付けられた芝の体は恐怖と不安で凝固していた。
「なにビクビクしてんだよっ!」
 外に聞こえちゃうからそんな声出さないでと頼もうとすれば、明らかに首の回転領域か
 ら外れたところまで振り向かされて塞がれる。
 唸り声が漏れた。
 その声を聞いて知佳の力が少し弱まった隙に、芝は便座に腰かける体制へと変える。


「どうしたの知佳?なんか気にいらなことでもあった?」
 本当は気付いている。
 知佳は嫉妬に燃えている。
 自分のせいで。
 自分への執着で。
 それを思うと自然と芝の頬は緩む。
 だが、こんな時に嬉しそうに微笑まれても知佳には過度の刺激にしかならなかった。
「オレをからかって楽しいのかよ」
「からかってなんかないよ」
 嫉妬と気づけば何も怖くない。
 当初はこのまま殺されるのではないかとさえ思いはしたがこの様子では大丈夫そうだ。


「お前オレが好きだって言ったじゃねぇか」
「好きだよ。知佳が俺を好きじゃなくても」
「誰がんなこと言ったよ」
「誰も」
 煙に巻くような物言いに普段なら話題を忘れる知佳はこの時ばかりは違った。
 大きく息を吸って再び視線で殺人を犯しそうな瞳に代わる。
 こうなると芝には手がつけられない。
 惚れた弱み、そのものだろう。


「脱げよ」
「ふぇっ?」
 間抜けな声だと思ったのは一瞬で、冗談ではないことを鮮明に物語っている顔をまっす
 ぐ見てしまった。
 見間違えでは決してない。
「下全部脱いで俺にケツ向けろ」
 芝は己の耳を疑ったが、残念ながら聞き間違えでも無い。
 今年も聴力検査はオールクリア。
 知佳が首からかけている家のカギとお守りについた鈴が鳴る音さえ鮮明に聞こえる。
 視力はどんどん悪くなってるけどきっと他の四感がどうにかするから心配ないだろう。
 ―じゃなくて。


「ほんとどうしちゃったの知佳」
「早くしろよ!」
 押しかかるように体重がかかった腕は振りほどけず、ベルトを外そうとする腕力にさえ
 もちろん敵うわけがなかった。
 適当にこなせる芝と違い、知佳は使える筋肉を持った男だったのだ。
 無理やり唇を奪われ声さえ出せなくなった芝になす術はない。
 あとはただ身を任せるだけだった。


 知佳に背後を取られた上に視覚を奪われることは相手が誰であろうと怖い。 
 見えないことが怖いのだ。
 見えなければどう対処すればいいのか分からない。
 視えなければどう生きればいいのか分からない。
 眼を覆うものが知佳の掌でなければ暴れ出していたことだろう、例え相手が知佳でも。
 糸が切れるような音がして、少し冷静な思考を取り戻した芝を衝撃が襲う。
 妙に生暖かく小さな無機質な物が知佳の指に押されて菊門に押し込まれる。
「別にヤらねぇから力入れんなよ」
「無茶言わないでよ」


「よし、入った」
 指が抜けて、床に落ちていたズボンに手をかける。
「何してんの」
「授業、始まんだろ」
 数瞬、理解ができなかった。
「中の奴、自分で出すなよ」
「出来るもんならやってるよ」
「だろーな」
 あっという間にベルトまで絞められて個室の扉が開く。
 幸い誰もいなかった。


 チャイムが鳴る。
 さぼりの常習犯の知佳は今日に限って焦って走って行った。
 次が特殊な授業だった記憶は無い。
 隣のクラスの時間割はちゃんと芝の頭に入っている。
 そして自分のクラスは―
「もういっか」
 ポケットから音楽機器を取り出して耳にはめた。
 行先は屋上だ。
 すれ違った生徒が不思議そうな顔をして此方を見ていた。






 違和感がないわけではない。
 ただ、気にしなければ気にならないレベルでもある。
 セックスだなんてものを覚えてしまった中学生の末路なのか時間が許す限り知佳とはヤ
 っていて、なんだか麻痺しているのかもしれない。
 だから音楽があれば2時間位しのげるのだ。
 授業に出る自信はさすがに無いけれど。


 チャイムがなる。
 ほら、1時間耐えれた。
 芝は人知れず微笑む。
 屋上と廊下をつなぐ窓がガタンとなった。
 イヤホン越しに芝はそれを遠くに聞く。
「サボってんじゃねーぞ」
 笑いながら声をかけてくる様子はいつもの知佳だ。
「ほら、お前の体操服持ってきてやったから」
 次は知佳のクラスとの合同体育だ。
 すっかり忘れていた自分に驚いてどうせ誰も来ないのだからと屋上で着換え出した。
 知佳の生着替えも見れて気分は上々だ。


 違和感に気づいた。
 妙に聴力が研ぎ澄まされている気がするのだ。
 そりゃ隣のクラスの知佳の声を一言一句聴き逃さない意気ごみでいるだけに耳を澄まし
 てはいるのだが、何かが違う。
 鈴の音がする。
 そして気づく。
 その音が自分の動きと連動していることに。
 くぐもった音が下から聞こえてくることに。


「芝」
 様子がおかしかったのか教師が声をかけてくる。
 それを流すも冷汗が芝の顔を伝い砂に窪みを創った。
 とっさに知佳の方を見るとまるで何もないように、それでも確かに芝を見ていた。
 初めて見る表情だった。
 もしかしたらトイレでもこんな顔をしていたのかもしれない。


 鈴の音が鳴る。
 コートを駈ける足と共に。
 鈴の音が鳴る。
 己の存在を知らしめるように。
 鈴の音が、鳴る。
 自分たちの行為を教えんとばかりに。



 鈴の音が鳴る。
 ネコはここにいますよ、と。 






 授業を終え、逃げるようにトイレにこもった芝を知佳は追いかけてきていた。
「開けろよ」
「嫌だ」
 芝は初めて知佳を拒絶した。
「開けろって言ってんだろ」
「いやだ、来ないでよ」
「蹴破んぞ」
「………」
 おずおずと開かれる扉の淵をがしっと掴んだ知佳は個室に己の身を滑り込ませた。


「何怒ってんだよ」
「怒ってるのは知佳だろ」
「…そうだな」
 ふと、いつもの知佳に戻った気がして畳掛ける。
「なんでこんなことするの?俺のこと嫌い?」
「んな訳ねぇだろ」
 言ってから思った。
 もしかしたら肯定されるかもしれないと予想していた自分が居たことに。
 安心したせいか言葉が続かない。


 そして出来た沈黙を破ったのは知佳だった。
「オレのものだって教えたかったんだよ」
「…ばれるのが嫌だって言ったの知佳なのに」
「だってお前が…その、クラスの奴に好きだとかなんとか言ってたから」
 2限後の休み時間のことを思い返す。
「あぁ、あれか」
「やっぱ言ったんじゃねぇかよ」
 拗ねたように頬を膨らます知佳がやはり愛しく思えた。


 良かった、俺はまだ知佳を愛してる。
「愛してるよ」
「答えになってねぇ」
「あれはね、クラスの子に知佳のこと大好きなんだなって言われたんだ」
 クラスも違うのによく知佳と一緒に居たから。
 事実だから肯定した。
 本当は愛してるって言いたかったけど。


「ねぇ、知佳は俺のこと好き?」
「そう言ってんだろ」
「俺は愛してるよ」


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