=Lust= 身体が軽い。 今なら空が飛べそうだと思った芝は考えを撤回する。 空を、飛んでいた。 眼下には日に照らされた高校がある。 頬をつねろうとして思いとどまる。 自分の夢のことだからどうせ痛覚はある、と。 妙な位置で止めた右手を羽ばたかせてみるものの飛びも落ちもしない。 自由に飛べるわけでもないらしい。 高度は思うようにならないがそれを除けば身体は自由に動いた。 もちろん思考も束縛されていない。 芝は夢特有の思い込みがないか確認しだした。 名前、年齢、在学校名。 住所に電話番号に自分のこと。 「飛び降りてゾンビになって人を殺さなきゃいけない。 …オッケー、完璧」 どうせ夢だ。 楽に構えれば良い。 考えを移す。 夢は深層心理の写し鏡。 「欲求不満…なのかな」 ならばそのうち理想の女性像でも出てくるのか。 それとも女性を連想させるものか。 眼下に穴がないか見渡す。 遠くに煙突が見えるけど関係あんのかな。 「どう思う?」 誰にともなく呟いた。 「あれ?」 ゆっくりと身体が落ちていく。 飛行時間は終わったらしい。 校舎にぶつかるかと思いきやギリギリのところを落下していく。 不思議と徐々に加速する様子はない。 ふいに既視感を覚える。 上体を起こしたままの落下で気付かなかった。 そこは数日前に落ちた屋上からのルートとまったく同じだった。 地表を見る。 一本の槍が生えていた。 なぜだか生えていると思った。 突き刺さる槍。 肛門では無い穴が焼けつくような痛みに見舞われる。 例えるならそう、腔のような既に身体に存在していた空洞。 痛みは一向に引く気配がない。 逃げようとしているのか身体は浮いたり沈んだりを繰り返す。 擦れる粘膜から痛みではない何かが駆け上り、冷たいような温かいような感覚が走った。 それが頂上まで行き着いたとき、視界が真っ白になって世界は吹き飛んだ。 似たような夢を見るのは久しぶりだった。 かつて、これほどまでにリアルな落下は無かった。 やはり経験は夢にも反映されるらしい。 落下速度だの物理だのを必要に意識していたあの頃の自分は本当に落ちる時、時間が止 まって見えるような気持ちを知らなかった。 就寝直前まで読んでいた本の影響だろうか。 心理について書かれた書物は酷く芝の好奇心をくすぐる。 内容は今までのと大差なかった。 書店で見つけたから購入して読んだに過ぎない。 枕の横に置かれたもう1冊の本もそうだった。 題材は快楽殺人の真理。 数ページめくったところ快楽殺人犯に挙げられる特徴が書かれているようだ。 まだ、空が白み始めたばかりだったので読みだすことにした。 数日中にはその仲間入りするであろう自分には当てはまるのだろうかと思いながら。 本を読みながらこれほど笑ったことはあっただろうかと芝は振り返る。 あまりの馬鹿馬鹿しさ加減にならあっただろう。 これじゃまるで自分を観察したかのような心理テストに出くわしたときの気分だ。 家庭自分ともにそれなりに恵まれている。…そう、自分では思っている。 家庭には問題がある。両親ともに酒癖が悪く、運悪く居合わせると怪我をする。 転勤が多い。父親が優れた教師なのか度々問題のある中学へ赴任する。 セックスへの嫌悪感。気持ち悪いほど両親と似た顔に遺伝子への恐怖が募る。 さすがに性的虐待は無かったが驚くほどにあてはまった。 例を上げ出したらきりがないとはこのことだ。 何より、性的窒息(セクシュアル・アスフィシャル)という言葉が存在したことが可笑しかった。 まるで私生活をのぞかれているようで。 あれは中学に入る少し前くらいだろうか。 自分でするときは息をとめた方が感じる気がしたのだ。 何の影響を受けたわけでもなく、ただそんな気がしただけ。 白昼夢に至ってもさして違いは無かった。 今はごまかす術を見つけただけで昔、精神科に連れていかれたことがある。 理由は鮮明には覚えていない。 ただ、不思議に思った事を自分なりに解決してみたことが誇らしくて親に話したことが 原因だったように思う。 所謂、空想と呼ばれるものだった。 他にも、1人で遊んでいるときの表情が不気味だったのだとあとになってから言われた ことがある。 記憶に残る限りでは、昔、ヒーローを模った人形と怪物の人形で遊んでいた。 直立不動のヒーローに怪物を投げつけるのだ。 それでも傷つかないヒーローに爪で傷をつけた。 首にひもをくくりつけて振り回したこともある。 はたまた、司令部になったつもりでヒーローに試練を与えた。 ヒーローは必ず失敗する。 そこで罰と称してソファにくくりつけてさらしものにしたり逆さづりにしたりした。 あの頃から、正義を疑って、壊していたんだ。 芝は手にしていた本を閉じた。 これから先は殺人後に読むべきだと判断したからだ。 影響を受けたら元も子もない。 丁度、日も昇ってきた。 声を殺して笑ったせいか少し身体が汗ばんでいる。 5月の空気は少し冷たくて風呂場に向かう足を止めた。 俺は1週間以内に殺人を犯すであろう。 頭の中で予言者が囁く。 手元には右手から出てきたナイフが握られている。 壁1枚挟んだリビングではおそらく父親であろう新聞をめくる音が聞こえてきた。 日常に戻るために武器をしまった。 過去から今に至るまで幾度もシュミレートしてきた。 築き上げられた正義を崩すこと。 それがいつからか存在するものの破壊に繋がり殺人と化していた。 もちろん実行に移したことはまだ、無い。 酒気をばらまく人間が居る。 そこから空想は始まる。 どこにでもいそうな黒髪の女に声をかけた。 おぼつかない足取りにまゆをひそめて肩を貸す。 家まで送ろうかと問えば一瞬の間の後頷いた。 気つけにと、コンビニで買ってきたお茶に睡眠薬を入れて渡す。 歩いている途中、眠ってしまった。 廃屋に向かう。 椅子に縛りつける。 ナイフで刺す。 これがいつもの空想だ。 それに先日からゾンビになる死体という項目が増えた。 同時に、男の顔が浮かぶ。 栄えある蝶の代理人の男。 実行に移すには今までになかったリアリティが必要だ。 殺人は罪なのである。 罪だなんて背負いたくない、当たり前だ。 これからも死体を作り続けなくてはならないのだ。 だからなすりつける相手を作ったと同時に喜びを増やす。 騙され動く警察にメディア。 考えるだけで体温が上がるようだった。 風呂場の床の冷たさがふれている尻から伝わってくる。 自身を擦る手の上下運動が早くなるのを止められない。 もう片方の手で絞める首はどくどくとうるさく脈を打っては頭の中を圧迫が襲う。 あふれ出した液体で滑る自身の割れ目に爪を立てた。 「かっ、は…………」 絶頂とともに力が抜けて呼吸が再開された。 さっと頭の中が冷たくなって、熱くなる。 動きづらい腕を伸ばして浴槽から湯を掬う。 途中洗面器が1度湯の中に落ちた。 力の入りにくい足で己の吐きだした白濁を排水溝へと追いやる。 足の裏にぬるりとしたものが付着して酷く虚しかった。 殺人とはあっけないものだった。 途中、女は目覚めたものの芝を誘惑する始末。 自分の外見のせいで慣れていたのでそのまま行為を行った。 「はい」 渡された避妊具を難なくつける。 解れた蕾に方針をあてがえば飲み込まれ、本能の赴くまま後は腰を振るだけだった。 絶頂に達し痙攣している女を見て動きが移行する。 両手で首を絞めた。 服を適当に着せ、予定通りに椅子に固定した。 あまりに空想の中と一致して芝は息をのんだ。 手にはナイフがある。 数歩下がって大きめの動作でそれを投擲した。 ナイフは狙いをずれ肩を裂き地面に落ちた。 「首に当てたかったのに」 心のこもっていない声で落胆を漏らす。 すると、ナイフがふいに浮かび上がるではないか。 まるで夢のようなご都合主義に芝は何故か疑問が浮かばなかった。 夢見心地でナイフを飛ばす。 なかなかくたばらない女に飽き始めたころ、動かなくなった。 音楽の途切れめにそれに気づいた芝はイヤホンを外した。 そういえば自身は勃起したままだと今更気づく。 死体硬直の始まっていない身体を使ってみたが達せたものの何か物足りなかった。 そういえばゾンビってどんな仕組みなのだろう。 心臓が無くても動けるのか気になって切り取ってみた。 服が思いのほか切れにくくてわざわざ捲って。 弾力のある心臓の感触を楽しみながら帰路につく。 空き箱にそっとそれを仕舞って蓋をした。 翌日。 両親のいないリビングはやけに静かでテレビをつけた。 映る被害者の写真にあぁこんな顔だったなと思う。 どの報道番組も同じ内容でテレビを消した。 起動しておいたPCを見る。 アクセス数に特に変動なし。 話題になるのは昼ごろだろうか。 昨日撮った写真に先ほどの女性の面影を探してみるものの、顔を思い出せなくてすぐに 止めた。 旧友の顔しか出てこなかったのだ。 朝から旧友の顔があまりにちらつくので会いに行くことにした。 寮の場所も聞いていたから放課後、本を読みながら向かう。 殺人後だ。己に課してた決まりも無効になり気兼ねなく読み進められる。 本によれば秩序型殺人者になるのだろう。 そう思っただけであとは当てはまらないことが多かった。 切断は死亡前後両方に行ったし死体の格好に対して意味は無い。 現場に帰っちゃいないし発見される様を観察していたわけでもない。 ただ、殺人記念に心臓を持ち帰った。 今も箱に入っているはずだ。 それを意味ごとにスーベニアかトロフィーと言うらしい。 どちらの意味でも当てはまるなんて有りなのだろうか。 人とぶつかる。 荷物が宙に舞った。 反射的にそれをキャッチするとその後ろに旧友が見える。 ぶつかった男はそのまま走り去り、追いかけようとした知佳を呼びとめる。 振り返り噛みあう視線。 痺れるものがあった。 分かった。 次に殺すのは、知佳だ。 闇夜の静寂を打ち破る破裂音。 眼中になかった相手が発砲してきた。 芝は眼を疑うが身体を走り抜けた激痛に思い知る。 「俺はね、勝手に君に感情移入してたみたいなんだ」 自分を納得させるようなその言葉は音にならずに散ってゆく。 がくり。 音を立てて視界が変わる。 手首を掴む知佳の手に爪を立てることだけが目的を達成する手段のように思えた。 「型からは…抜け出せない」 本を持つ手が震え、ページがめくれた。 秩序型殺人者の傾向についてまとめられた表が隠れ、代わりにフィードバック・フィル ターの文字がちらつく。 「いつまでも囚われている」 刃物を使用した犯行の場合、銃器を使用したそれよりも捜査への干渉をする確率が高い。 必要のない記憶力のせいで思い出す。 指先から順に鎖が巻かれていくような錯覚に陥って本を投げ捨てた。 くしゃりと紙が折れる。 「逃げられ、ない」 まるで自分は囲われている。 <<