それは驚くほどの偶然だったと芝は思う。
 迂闊であったとさえ思わないのだ。
 何も、考えていなかった。
 ただ、なんとなく、空腹を、覚えた。
 切欠はそれだけだった。


 思い立ったのが昼とは言えない時間であったので大抵の店は開いていない。
 だからコンビニに行った。
 ふと降り立った地上で、ふと目についた店へ。
 飛べやしないから場所はランダムだけど気にしない。
 行き当たりばったりが当然の成り行き。

 
 ピコンピコン―。
 自動ドアが開くのに連動して音が鳴る。
 万引き防止のそれに似ていて意味もなく身がすくんだ。
 もちろん店側としてはそれも兼ねているのだろうが。


 まるで自分が入ってはいけない所に足を踏み入れたような気分にさせる。
 被害妄想も甚だしいが、やはりそう思う。
 己を包んで守ってくれるものは無い。


 ポケットに入ってたイヤホンを耳にねじ込む。
 音楽はかけない。
 自分を守るための壁を作るだけ。


 レジの奥から店員のやる気のない声が聞こえてきた。
 時刻は22時少し過ぎたくらい。
 こんな時間にもかかわらず店の中には店員と俺の2人しか居ない。
 そういえば見てきた風景は民家ばかりだった気がする。
 立地条件があまり良くないようだ。


 品揃えはそこそこでどれにするか迷う。
 これといって食べたい物が思いつくわけでもないのでしらみつぶしに眺める。
 塩味とあっさり塩味ってそんなに違いがあるのだろうか。
 チョコレート味と生チョコ風味とココア味のケーキって何が違うんだろう。
 そんなことを考えながらも別に買うわけではない。


 なんだか無性に食欲が湧いてきた。
 珍しい感覚に芝はふと笑った。
 意味も理由もなく塩味とココア味を選んだ。


 明太子と塩じゃけのおにぎりを手にしたところで考える。
 塩分摂りすぎじゃね?
 どう違うのか知りやしないけど塩味をあっさり塩味に変えた。


 健康食品のスペースを通り過ぎる。 
 健康なんて気にしなくなっていたからなおさらだ。
 それでも視界の隅にココア味をとらえて足が止まった。


 どうせまた明日から食べるとかしないんだろうな。
 もとからそういう人間だ。
 気が向いたら食べるが普段は食べない。
 それは人間の頃から変わらない。


 …そういえば、知佳に怒られたことあったな。
 かつての親友は昼飯をよく抜く芝の口に無理やり食物を詰め込んだ。
 帰り際の買い食いも今思えば自分のためだったのかもしれないと気付く。
 ふいに懐かしくなった芝はメロンパンを買うべく方向転換した。


 パンの棚のま後ろの扉が音を立てて開いた。
 予期せぬ音に振り向いてしまう。



「あ」



 二人の声がかぶる。
 そこには制服姿の男が居た。


 一点の汚れもない透き通るような瞳。
 芝を確認して楽しそうに形を変える唇。
 互いの関係を思い出したのかしゅんと下がる眉。
 蛍光灯の光さえも眩しく跳ね返す尖った髪。



「…知佳」



 店員に軽く頭を下げて知佳は店を出た。
 あとに続いて出てこない芝に首をかしげつつ腕をつかむ行動力は今も変わらない。
 変わってしまったのは自分。
 後悔だなんて言葉が浮かび始めていることに芝は気付かないふりをする。


「知佳」


 無言のままどこかへと連れられて行く身体。
 目標があるのかその足は止まらない。
 ただ隣に居るだけで心地よかったはずの空気が今はもう無い。
 少しの不安と違和感。
 返事がないことでより一層強まる。


 ここは己の居るべき場所では無い。
 一歩進むたびに頭の中が煩くなっていく。
 コンビニに入った時と同じだ。
 知佳が住む黒羽寮に入るべきではないと、ピコンピコンと、音が鳴る。


 掴まれた腕が言うことを聞かない。
 振りほどかなくてはと頭では思うのに行動にうつせない。
 脳と腕は繋がっていないのではないかという気分にさえさせられる。



 扉が、閉まった。



 頭の中の音にばかり集中していた意識が現実に戻される。
 外気にさらされた冷たい手が後頭部に触れた。
 どうしたの、と聞こうとしたが知佳の顔があまりにも近すぎて口を閉じた。
 さっきコンビニで見た親友に再会できた顔でも元親友である敵を見る苦渋の決断を迫ら
 れている、そんな表情でも無いそれ。
 例えるならそう、決心した顔を、知佳はしていた。


 身体の中身まで見透かすような眼が迫ってくる。
 身を引こうとしても頭を後ろから掴まれていて反らせない。
「っ……」
 うっすら開いた口から伸ばされた舌が唇に当たる。
 そのまま唇を押しつけられてとっさのことで息苦しくて、開いた隙間から舌が入り込ん
 でくる。


 粘膜の擦れる感覚に体内を一本に通った線が連動して揺れる。
 嫌悪から来るものではないうめき声を聞いた知佳は芝の足を自分の足で割った。
 鼻から息が抜けて妙な音を作り出した。
 その時、気づいた。
 感じてる、と。


 思えば知佳に触れられている胸のあたりからも線が揺れている。
 ボタンを片手で外していく知佳の手は少し温かみを帯び始めていた。
 これから何が起こるかなんてわからない程世間知らずではないけれど。
 これを人は幸せと呼んで崇めるのかもしれない。
 知佳の表情がもっと柔らかければ、だけど。


 首元に移動した唇が甘く歯をたてる。
 顔は見えなくなったけど真顔でこの行為をしているのだろう知佳の気持ちを思う。
 果たして「好き」だなんて言葉で表せる感情なのか。
 さっと熱が引いた。


 体を反転させられてまた扉に押し付けられる。
 とっさのことで打った鼻が痛い。
 ふわっと肩に温風が当たる。
 両手にも手が、添えられる。
「知佳?」 


「痛っ…」
 肩の骨あたり、肩胛骨を噛まれる。
 少ない肉を剥がそうとばかりに。
 動こうにも足も手も抑えられている。
 真剣にもがけば逃げられるのかもしれないけどそれをするには殺気が足りな過ぎた。
 名前を途切れ途切れに呼ばれていることに気付く。



「行くなよ」

「飛んでくなよ」

「芝」



 羽根なんてとっくに壊れてしまっていたというのに。