とあるオフィス街の一角で芝は座り込んでいた。 パタパタと足を振りながらじっと下を見つめること数十分。 真夜中のオフィス街は昼と違い閑としている。 ちらほらと灯りはついているもののそれは静かなものでおおよそ存在感を主張しない。 その中に他のビルの屋上の人影に気付く者はそういない。 遠くでエンジン音を盛大に鳴らすバイクが数台。 「早く…」 誰に言うでもなく一人呟く。 死体回収業者を待っているのだ。 眼下には先刻自分が狩った元ゾンビが横たわっている。 芝の視力は良い方だ。 今なら優れているといっても遜色はないだろう。 生前は小数点第二位まで使わなければ表せなかったが今となっては30階程度下の物でさえはっきりと見える。 死神になって特筆すべき変化がこれだ。 人間は視野が狭くていけない。 視界の広さを実感した。 ふちに座って足をバタバタさせていた芝は己の視界に赤い光が差し込むのに気付く。 このサイレンもいけない。 芝は思う。 安心をもたらす筈の音がだんだん近づいてきて、不安を覚える。 自分に危険が訪れるような気さえする。 警戒音であるのがいけない。 ドップラー効果もいただけない。 後者はただの現象であって、人間が故意に作り出したわけではないが。 高くなるサイレンの音が不安を運んでくる。 鼓動が高まる。 体温がさーっと低くなるような感覚に見舞われてそれをふりほどこうと首をふった。 「ラッキー、動かないでヨ」 首に冷たいものが当たり妙に高い声が喉を突く。 ただ、声が漏れだすほどの隙間もないほどに絞めあげられていて。 落胆の意を心の中でこぼした。 「いい加減にさー、しゃべっちゃえって」 くすんだ金髪をだるそうにかきむしりながら紅棍は言う。 返事が無かったからだろう。 嬉々として再び関節を外す作業を始めた。 脱色が甘かったのだろう。 視界に霞がかかってきたことに芝は危機感を覚えつつ、じっと見つめる。 恐らく黒であったのだろう地毛が金色をくすんだものにしている。 脱色のようにこの行為に飽きてくれないかなと思った。 「こいつ不感症とかじゃないよね?」 確実に苛立ちが交じった声で紅棍は椅子に腰かけて動かない男に声をかける。 董奉哥哥と呼ばれた男は何も答えない。 とっくに挫けてんだけど、とは言葉にしないことにする。 天井から直接伸びた鎖に繋がれて両手だけで芝の全体重は支えられている。 なのに右肩の関節さえも外そうと紅棍の手はのびる。 「…紅棍」 紅棍の動きが止まる。 董奉の声が天の啓示にさえ思えたとしても仕方がない。 「殺すなよ」 「だってよ。リョーカイなんつって」 紅いものが見えた。 動いているものを見てしまうのは生き物の定め。 もっとも、2回程死んでいるけれど。 よくよく見れば紅棍の唇がかさついている。 湿らすために舐めたということか。 …まさか舌舐めずりではあるまい。 確信と不安が絶妙なまでに混じりあい逃げの思考に走る。 自分の良いように。 生前の自分には決して無かった楽観的なものの考え方。 人って変わるもんだな、とおおよそ現実から外れたことを考える。 「殺さないようにしなきゃね、めんどくせ」 最悪。 最高の笑顔が見える。 きらきらと効果音が付きそうな。 表情にまで嗜虐的な思考が現れているのだ。 第一印象も馬鹿にはできない。 今の今まで気づこうとしなかっただけでこの男、人をを痛めつけることを楽しんでいる。 その上に自分の感情を顔に出したら相手の思うつぼだ。 苦しめば苦しむほどこの行為は終わらない。 「だからさー、彼岸人のことチョーットだけ教えてくんない?」 委員会の3人に知佳の雇い主。 その4人が彼岸人であることは知っている。 だけどそれ以外の何も、知らない。 「知ら…ない」 半濁してみて涙が出てきた。 「へ?んな訳ねーでしょ」 だって知らない。 「知んない」 知らない。 何も聞いていない。 興味のないふりをして好き勝手にしてるように見せかけているだけで。 信用されていない。 だからあんな所に居たんだ。 ふとゾンビに葬送された元ゾンビの死体の行く末が気になって。 知らない方がましだったなんて昔は何度も思ったのに。 知りたくて知りたくて今は仕方がない。 「ちょっ、マジっすか。まさか…ハズレ?」 人一倍、いやそれ以上、無駄なまでに高い自尊心が削られていく衝撃に悲鳴が上がる。 それを己の所為の成すものだと信じ、紅棍は唇を歪ませて間接に打撃を加える。 まさに悪循環。 「…違う」 「はずれ、だな」 「違うっ!」 見捨てるように董奉は立ち上がり。 見下げるように紅棍は嘲笑う。 二人が渦のように周り、笑い声を立てて芝を奈落に引きずり込もうとする。 プライドを捨てる屑籠を差し出しながら。