「母さん…家、出ちゃダメだって」 年の割には恐らく軽すぎるであろう矮躯が震える。 それを抱えて記憶の海を歩いていた。 「忘れちゃえばいいんだよ」 両目を覆い耳元で囁く。 「忘れて」 何度も繰り返しながらも浮いている知佳の記憶に心を奪われていた。 屋上につながる扉が不快な音を立てて開く。 その音に驚いて俺は振り返った。 知佳の髪がまだ黒い。 きっとあの時だ。 「お前…芝。何してんだ、落ちっぞ」 飛び降りようとしているだなんて欠片も考えてないのであろう。 そんな低能さを当時は鼻で笑ったものだ。 もちろん心の中で。 逆光で人物は特定できなかった。 それでも名前を呼ばれるからには学年は同じなのであろう。 その人物に向かって適当に微笑んだ。 「ごめん。ちょっと考え事してて」 そいつはどんどん近付いてきた。 扉の影からとがった物が出てくる。 「せっかく秘密基地だったのによぉ」 「秘密基地って…」 微かに見える表情は声音とは裏腹に笑っていた。 今でも覚えてる。 ただ楽しいから笑う。 そんな顔。 背に日光なんて背負っていたから神々しいものにさえ思えた。 「お前、とオレみたいなの…いっぱい居る」 訝しげに辺りを見回す知佳はあの時のことは知らない。 まだ、知らない。 そして一生。 「俺は芝怜一朗ね。覚えた?」 「レイイチロウな」 懐かしい響きに思わずふいてしまった。 自分の懐にいれた者は全部名前で呼ぶ知佳。 ある時にふと呟いた言葉が俺への呼び名を変えた。 それは嬉しくもあり寂しくて。 それすら知らない知佳は不思議なものを見るように俺を見ていた。 「あれ?間違ったっけか。レイイチロウだろ?」 「うん、そうだよ」 よく覚えられましたと頭を撫でると髪が崩れると手から逃げようとする。 やはりこんな姿でも知佳には間違いなくて。 夢見心地で抱えなおした。 遠くに中学の卒業式が見える。 知佳と別れてしまった場所。 あの時からとても無駄な時間を過ごした。 生きているだけの日々。 でもこれからは違う。 知佳を求めてさまようことは。 知佳を探し続ける旅はやっと終わった。 何度も何度も忘れようとした。 あの時の世界の輝きを自力で取り戻そうとした。 知佳がいなくても大丈夫。 暗示をかけるように呟けば呟くほど知佳を思い出す。 きっと知佳は今でも楽しく生きている。 俺は知佳にとっては友達にすぎなくて。 きっと親友が出来ただろう。 そんなこと認めたくない。 俺は知佳を愛してる。 …やはり変われない。 知佳が居ないことに耐えられない。 手元の知佳も気付けば大きくなって。 あの時みたいに13になって。 歴史は繰り返して。 「芝、そんなとこ居っと落ちっぞ」 ビルの淵に佇んでは声を掛けられる。 ネオンの光が揺れて知佳の姿が浮かぶ。 15になる頃には―。 「考え事、してたんだ」