ちらつく。
「どうした賢木、具合でも悪いのか?」
「俺が体調崩したら医者の不養生って言われちまう」
「それもそうだな」
 人を疑うことのない皆本はそのまま確認作業に戻った。
 あぁ、違う、今のは語弊だ。
 皆本は懐に入れた人間を決して疑わない。
 職業柄、裏切りという行為にもあったことがあるのに、だ。

「なぁ皆本」
「なんだ?」
 ふとあげた顔は出会ったころから少しずつ変わっている。
 それほどに年月を共に過ごした。
 今まで毎日のように顔を合わせる存在を持たなかった。
 人が歳をとり成長していく様をみるほど長く続いた縁なんて無かった。
 皆本に出会い、俺は変わった。 
 けれど皆本自身は何も変わらない。
 それどころか年々まっすぐになっているように感じるのは俺だけだろうか。
「用が無いなら仕事に戻るぞ」
「愛してる」

 途端、目を通していた資料をばらばらと床の上にばらまいた。
 散乱しているものを拾うでもなくぱくぱくと口を開閉しこちらを見ていた。
「冗談なんかじゃないからな」
「な、内容じゃなくて時間と場所が問題だ」
 もう何回も愛を告げた。
 皆本も拒否はしない。
「急に言いたくなったんだからしょうがねぇだろ」
 ただ、付きあっているわけでもない。

「むしろ職務中じゃ無かったこと、褒めても良いと思うね」
 とっくに日は暮れている。
 特に異常事態もない。
 家に帰りづらいのだろう。
 本人にそんなことを言うと否定するに決まっているし、本当に気づいていないのだろうけれど。

「もしもそんなことがあった日には…わかってるだろうな」
「ま、俺だって立場ある大人だからさすがにPTOは守るさ」
「信頼してるよ、賢木」
 要するに良い様に扱われているのだ。
 手玉に取られていると言っても良い。
 もちろん皆本に悪気は無い。

 あるいは八つ当たりなのかもしれない。
 俺達が年を取るということは即ちチルドレン達が大人になることでもある。
 ちんちくりんのガキの頃から面倒を見ていた少女達が女性に近付いているのだ。   
 少しずつ話題も空気も変わる。
 仕事をしていた方が楽な時だってある。
 そういうことだろう。
 今まで何気なくこなしていたことが難しくなる。
 俺だってそうなのだ。

 もともと大人びていた紫穂ちゃんの態度が日に日に険しくなっていく。
 表面では笑っていても何かにつけ威嚇をしてくる。
 恐らくこれも本人は気付いていない。
 俺はいつしか敵になっていたのだろう。
 俺が皆本を好きだと、愛していると気づいてしまったのだろう。
 どうせ隠せるとは思っていなかった。
 どこか冗談だと思っていたのかもしれない。
 男同士だからと勝手に割り切っていた。
 愛というものを理解していなかった。

「それは俺もなんだけどさ」
「何が?」
「いんや、ひとり言」
 つくづく厄介なものだ。
 紫穂ちゃんも自分も心も皆本も、人間も。

 この間ふと視てしまったチルドレン達の心は一定の方向に荒んでいた。
 大人になるということはそういうことなのだ。
 それは皆本のことであったりチルドレンのことであったり学校のことであったり。
 皆本と会ってから諦めるということを忘れていた。
 出来ないと思ったことがすべて現実になった。
 皆本をどこかしら盲信し、けれどどこかでうすうす気づいていたのだろう。
 全ての人が幸せになる方法など無いということを。
 厳密に言えば自分たちの知ってる人、みんなが、だ。
 自分が我慢してさえ上手くいかないことがある。

 皆本と、皆本が、皆本を。

 被害者意識も良いところだが、全て皆本が原因の一端を担っている。
 皆本がいなければ希望を抱くことも無かった。
 皆本がいなければ取りあうことも独占したいと思うこともなかった。

「呑みに行くか」
 思った言葉をそのまま口に出した。
 昔の、少し前の俺ならもう少し言い様があっただろう。
 上手く誘えたのだろう。
「もう少し待ってくれないか」
「いいぜ」
 
 本当にバカみたいだ。
 皆本と会わなければもう少し思慮深い人間になれたかもしれないのにと思う、自分。
 これはきっと悪いことではないのだ。
 チルドレン達に、紫穂ちゃんに、教えてあげたい。
 変わることは悪では決してない。
 少し怖いだけだ。
 立ち止まり続けることは酷く安定している。
 弱いだなんていうつもりは無い。

 前に進んでも良いのだ。

「皆本、愛してる」

 君を怖がって、賭けのように本音でぶつかる、そんな大人であっても。
 良いじゃないか。


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