死ぬのか、俺は。
 霞む視界がばらばらと崩れていく。
 眼球がうまく機能しなくなってきたのだろう。
 なにか、紙の束が降ってくるような、そんな気がした。
 はらはらと舞い落ちるそれに比例するように意識が散乱する。
 思考が氾濫してまとまらない。

 シュレディンガーの猫、という話がある。
 致死性の毒ガスが発生するかもしれない箱に猫を入れて時間を置く。
 毒ガスの発生は意図して起こるものではない。
 だから箱を開けるまで猫が死んでいるかどうかはわからない。
 蓋さえ開かなければ2つの可能性が内包されるというのだ。
 猫が死んだ世界と生きている世界。
 同時には起こりえない事実が可能性として存在する。
 なんて馬鹿馬鹿しい話だろうと思った。
 蓋をあけようが閉めようが生きているものは生きているし死んでいるものは死んでいる。
 事実は1つしかないのだから。

 ああ、思考が散漫になっている証拠だ。
 おおよそ今の状況に必要とは思えない知識が頭の引き出しの中から出てくる。

 ただ、用は済んだ。
 だからそれも良しとする。
 もう、言いたいことは言い尽したのだ。

 胸には平穏だけが訪れる。
 俺が死ぬことによってあいつが生き残ると決まった訳でもないのにほっとした。
 怖かった。
 俺だけが残ることが。
 ボスの負傷した姿を見たとき思った。
 あいつの戦地に赴く後ろ姿を見たときも思った。

 視界の隅に移りこむその人の姿を見ながら違う人物のことを考える。
 守ると決めたボスよりあいつが気になる。
 いつか来るであろう自分の中の優先順位が変わってしまう日。
 そんな時が来るなんて最近までは思っていなかった。
 けれど、どこかでそれを望み、恐れていた。
 
「ならば…これが最良の幸せ、だ」
 言いたいことだけ言って去っていく俺をあいつは憎むだろうか。
 ―俺はもう、考えなくてすむ。
 少しでも感情が揺れるだろうか。
 ―俺はぶれずにいられる。
 あいつを苦しめられるだろうか。
 ―俺は箱を開けずにいられるのだ。

 あの顔を歪められるかもしれない自分に高揚した。
 もう、失わなくて済む。
 なにもかも。

 

 さようなら。
 俺の―。



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